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  使徒信条の学び

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死たる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン。



我は信ず ―使徒信条の学び(1)

 今年度、私たちは「信仰の確立」を主題に歩んでいます。クリスチャンの信仰は、「いわしの頭も信心から」というように、良くわからなくても「信じ込む」というものではありません。むしろ、神が聖書の中に明らかに示してくださったことを「知って」、「理解して」、それに「信頼」して歩むことなのです。ですから、「どのように」信じるかということだけでなく、「何を」信じるかということが大切になってくるのです。どれだけ強く信じ込むかということで信仰が強められるのでなく、何を信じているのか、信仰の内容を整理して明確にすることによって信仰を強めることができるのです。

 信仰を三角形にたとえるなら、底辺にあるのが、客観的な知識、真ん中が主観的な理解、そして、その上に人格的な信頼があります。信仰を持つということは、聖書やキリスト教について「物知り」になるということではなりません。それだけなら、キリストがお生まれになった時の祭司や律法学者たちは信仰深かったということになります。彼らは聖書を調べて、キリストはどこで生まれるかを言い当てたのですから。しかし、実際にキリストを礼拝したのは、東方の博士たちでした。ユダヤ人の王としておいでになったお方を、ユダヤ人が受け入れずに、異邦人が自分たちの王として礼拝したのです。

 けれども、知識なしには、信仰は生まれません。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17 )とある通りです。あなたの信仰を安定したものにしたければ、三角形の底辺である知識を増やすことです。神がどういうお方であり、私のために何をしてくださり、私が神のために何をしなければならないかを、聖書から学び続けてください。基本的な学びであっても馬鹿にしないでください。聖書の基本的な教えを整理して理解することは、あなたの信仰のためにも、他の人にそれを伝えるためにも有益なことです。そして祈りの中で、神のことばを自分のものとしてつかみ、自分に当てはめていくのです。

 そして、その上に、神への信頼が根をおろすのです。信仰は、神についての何かを信じることで終わるのではなく、最終的には、神ご自身を信頼することです。私たちも、そのような意味で、『使徒信条』と共に、「我は信ず」と、神への信頼を言い表わしてまいりましょう。



神を知る ―使徒信条の学び(2)

 使徒信条は「私は神を信じます」と告白しています。「信じる」とは、やみくもに信じ込むとか、思い込む、信念を持つということでなく、信じる対象である神を知ることです。しかし、「神を知る」と言いますが、私たちの側から神を探求して、神を捕らえたり、定義したりできるのでしょうか。いいえ、神は、望遠鏡や顕微鏡でキャッチできるようなお方ではありません。もし、そうなら、神は宇宙や自然の一部分に過ぎないということになってしまいます。神は宇宙の創造者であって宇宙よりも大きなお方なのです。

 神を宇宙や自然のどこかに見つけることができないとしても、神の作品である宇宙、自然は、目にみえない神の知恵と力と栄光とを、見える形で私たちに表わしています。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(詩篇19:1)とあるとおりです。

 しかし、自然を通して神を知る方法は、完璧なものではありません。それは、この世界に罪が入ってきているからです。罪のために、この世界は、神が最初に造られたようなものではなくなってしまっています。罪のために壊された自然界には、弱肉強食があり、生存競争があり、病気があり、死があります。洪水があり、干ばつがあり、火山の噴火があり、地震があります。私たちは、自然の中に神の恵みだけを見るというわけにはいかなくなっています。神の作品である自然からだけでは、神の私たちに対する愛や計画をぼんやりとしか知ることができません。そこで神は、この世界に、ご自分のひとり子イエス・キリストを送られたのです。

 人間の世界は、自然界とその現象よりも、もっと複雑です。そこには、進歩もあれば堕落もあり、真実もあれば裏切りもあり、豊かさもあれば貧しさもあり、愛もあれば憎しみもあります。神は雄大な自然にご自分の栄光を輝かしておられるだけでなく、神の栄光から遠く離れた罪の世界の只中に、私たちを救う栄光、恵みの栄光を輝かせておられるのです。キリストが私たちの人生の中に入って来てくださったゆえに、私たちは、人生の中でキリストに出会い、キリストによって神を知ることができるようになったのです。「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:14)



全能の父なる神 ―使徒信条の学び(3)

 使徒信条では、神を「全能の父なる神」として告白しています。そして、「全能」と「父」ということばは切っても切り離せない関係を持っています。

 神が全能であるというのは、神には制限がないということを言っているのです。神は、全能であるばかりでなく、「全知」のお方、「偏在」(どこにでもおいでになられること。詩篇139:7-8 参照)。つまり、神はその力、知恵・知識、そして、その存在において制限がないお方なのです。

 そうすると、神は、宇宙の独裁者のようなお方なのでしょうか。そうなら、神の全知、全能は、私たちを押さえつけるもの以外の何物でもなくなります。神が、その知識や力においてだけ無限のお方であるなら、神は単なる巨大なコンピューターか原子爆弾のようなお方でしかなくなります。しかし、神はその力、知恵・知識、存在においてだけでなく、正義、公平、真実、きよさ、愛、あわれみ、忍耐、恵みにおいても制限のないお方です。

 神のこうしたご性質は、ある程度は私たちにも分け与えられています。私たち人間は、神のかたちに造られたものとして、幾分かの正義や真実、愛、あわれみなどを持たせていただいています。しかし、私たちの正義は不完全で、私たちの愛も無条件ではありません。だが、神には制限がありません。神はどこまでも正しいお方です。神の愛には制限がないのです。

 神はその愛をご自分の御子、イエス・キリストを地上に遣わし、私たちと変わらない人生、いや、私たちの誰もが体験しなかったほどの苦しい人生を歩ませてられました。そして、最後には御子を十字架の上で、私たちの救いのために死なせられたのです。ここに神の愛があらわれています。神の「父」としての愛が輝いています。

「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネ4:9-10)神は、専制君主のようにではなく、私たちのために、私たちの父として、全能の力を働かせてくださっているのです。



創造の神 ―使徒信条の学び(4)

 「あのぉ、神様っていらっしゃるのですか。」「神様はいらっしゃいます。私たちは神様に存在を許されているにすぎませんが、神様は、私たちに存在をお与えくださったお方なのですから。」「……(ちょっと、分からないなぁ。)」

 「あなたは、自分の力で生きていると思いますか。」「いいえ、誰かに生かされているように思います。」

「あなたを生かしていてくださるのが神様なのです。」「……(そうかなぁ。神様って、人間が想像したものに過ぎないのじゃないかなぁ。)

 「では、あなたの回りの物がみんな幻だと思ってください。自分が今見ているのは幻覚で、実際はないのだ。今聞こえているのは幻聴すぎないと思ってください。」「そうだとしたら、何も信じられなくなるじゃないんですか。」

 「でも、疑っても、疑っても、否定できない存在があるんじゃないですか。」「……(何かしら。)」

 「それは、物事を疑っているあなた自身です。」「そうですね。疑っているのは自分ですから、どんなに他の存在を疑っても自分の存在は疑えませんからね。」

 「そうであるなら、あなたに存在を与えておられる神様はもっと確かな存在なのではありませんか。」

 以上は、私がある方と実際にお話しした会話です。すべての結果には原因があります。ということは、世界が私がここに存在する(「結果」)ということは、それに存在を与えたお方がいらっしゃる(「原因」)という結論に到達します。神だけがただひとり、自ら存在されるお方で、世界は、私たちは、神によって造られました。

 創世記は「はじめに神が天と地を創造された。」と言います。ある人は、これを「創造神話」のひとつだと言うかもしれません。しかし、世界中に天地開闢(かいびゃく)の由来話が数多くありますが、よく調べてみるとどれも、すでに何物かが世界に存在していて、そこから世界が今の形になったというものです。「創造」は聖書にだけある概念で、他は世界の「形成」について語っているだけにすぎません。「創造」に触れている「神話」はなく、聖書の「創造」の記録は「神話」ではありませんから「創造神話」という言葉自体が矛盾なのです。

 私たちが「天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と言う時、世界が無意味に、偶然に造られたものではなく、神のご計画の中にあることを告白するのです。



おとめマリヤより生まれ ―使徒信条の学び(5)

 使徒信条がキリストの生涯について「おとめマリヤより生まれ」と言っているのは、多くの人々には信じがたいことと思われているようです。しかし、よく考えてみれば、土のちりから人を創造される神がおとめから子どもを生まれさせることなど、簡単なことではありませんか。実は、処女降誕の奇跡の背後にはもっと大きな奇跡があるのです。それは、永遠の神の御子が、有限な私たちの世界の中に入ってこられたという奇跡です。

 神の御子には、はじめも終わりもないのです。ヨハネの福音書は、キリストを「言」と呼び「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2 )と言っています。ヨハネの福音書の「初め」というのは、何時のことでしょうか。創世記に「はじめに神は天と地とを創造された。」とあります。ところが、ヨハネ1:3 では、「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」とありますから、創世記の「はじめ」よりも、ヨハネの福音書の「初め」の方がもっと「はじめ」であることが分かります。創世記の初めは、時間で計れる「はじめ」ですが、キリストが存在されたはじめは時間で計れない「はじめ」、永遠をあらわすのです。

 そのお方が、私たちと同じように、この地上に「生まれて」、人としての存在を始められたというのです。創造者が被造物になられたというのです。永遠に生きておられるお方、死なれることのないお方が、十字架の上で息を引き取られ、死なれたというのです。これはなんと驚くべきメッセージでしょう。福音書は、キリストのなさった奇跡を記録しています。例えば、盲人の目が開いたとか、らい病人がきよめられたという奇跡です。しかし、キリストの降誕は、それ以上の奇跡、奇跡の中の奇跡です。キリストは、そのご生涯を通して数々の奇跡をなさったばかりでなく、そのご生涯そのものが奇跡だったのです。

 神が人となられたという、この最大の奇跡を示すのに、処女降誕という奇跡を用いられたのは、神にとってふさわしい方法であり、私たちにも意味深いことなのです。神が私たちを愛して御子をお遣わしになったことが分かるなら、処女降誕も躓きなく受け入れることができるようになるでしょう。



十字架の中心性 ―使徒信条の学び(6)

 使徒信条は「マリヤより生まれ」と言ったあと、すぐに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と、一気にキリストの十字架へと話を進めます。使徒信条は、主イエスについて、「生まれ」「苦しみ」「十字架につけられ」「死に」「葬られ」と、まるで、イエスが苦しむために、死ぬためにお生まれになったと言っているかのようです。それは、福音書も同じです。特にルカによる福音書を見ますと、これは、全部で27章あるのですが、イエスが地上のご生涯の最後を遂げられるエルサレム行きの旅が、9章からすでに始まっているのです。もちろん、聖書も、使徒信条も、イエスの崇高なご生涯や、一つ一つが金銀宝石よりも尊い教えの数々がどうでもいいと言っているわけではありません。イエスに関することはどれもが大切なものなのですが、イエスの十字架は、最重要なもの、中心的なものである言っているのです。

 コリント人への第一の手紙1:22-23 で、使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」と言っています。パウロは人々がどんなことを見たいか、どんな話しを聞きたいか良く知っていました。ユダヤ人は「しるし」を求めました。奇跡や不思議です。現代人も、真に霊的なことでなく、そうしたものを追いかけ回しています。それがあたかも聖霊の働きであるかのように吹聴されていますが、十字架のないところに、聖霊の働きはありません。

 一方、ギリシャ人は知恵を求めました。パウロは博学な人でしたから、ギリシャ人の好奇心を満足させるような話しもできたでしょう。しかし、パウロはギリシャ人の好むような、もってまわった話しではなく、キリストとその十字架をまっすぐに語りました。人が知識だけで救われるのなら、理論も理屈も、美辞麗句も結構なことでしょう。しかし、人が救われるのは、信仰によってであり、その信仰を引き出すのは、神のことばのメッセージ以外にないのです。「十字架につけられたキリスト」それはいわゆる知的な人々からは、惨たらしい、野蛮な話しでしかないでしょう。しかし、素直に自分の罪と向かいあうことのできる人々には、十字架はただひとつの救いの道として輝いているのです。



キリストの復活と昇天 ―使徒信条の学び(7)

 使徒信条の「十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり」という部分は、キリストが私たちの救いのために神としての栄光を捨て、低くなってくださったことを語っていますが、「三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」という部分は、キリストがご自分の栄光に戻っていかれたことを述べています。ピリピ2:6-11に「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」とあるとおりです。神はキリストの復活と昇天によって、イエスがまことに神の御子であることを証明し、キリストの身代わりの死が、私たちの罪のための犠牲が受け入れられ、私たちのための救いが成し遂げられたことを宣言しておられます。

 キリストは今「父なる神の右に座し」ておられます。「神の右の座」とは支配の場所です。キリストは神から全権を任せられ、王の王、主の主として私たちを治めておられることを意味しています。もちろん、キリストの支配は、暴君の支配でなく、恵みの支配です。ですからそこは「恵みの座」とも呼ばれるのです。キリストは神の代理者として私たちに向かわれるだけでなく、私たちの代表者として、常に神に対してとりなしをしてくださっているのです。「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」と、ヘブル4:16にあるとおりです。

 キリストが天にのぼられたのは、私たちがそこにいることができるようになるためです。(ヨハネ14:1-3)キリストは、天から私たちを迎えるために、もう一度来てくださるのです。ですから、私たちの目はいつも天を仰ぎ見ます。四方から苦しめられ、八方ふさがりの状況でも、誰も天をふさぐことはできません。私たちの主はそこにおられます。



キリストの再臨 ―使徒信条の学び(8)

 使徒信条はキリストの再臨を「かしこよりきたりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」と告白しています。キリストはさばき主として、ふたたび世に来られます。人々が、人生の終わりや世の終わりのことを考え、恐れを感じるのは「さばき」を予感するからです。

「さばき」という概念は、普通は誰も考えたくない概念です。それで、ある人たちは、キリストを救い主としてだけ考えようとします。しかし、キリストは救い主であると同時にさばき主です。さらに言えば、キリストはさばき主であるから救い主になれるのです。「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する」(2.テサロニケ1:6-7 )とありますように、悪しき者がさばかれなけば、正しい者が救われないのです。さばきの伴わない救いはないのです。

 しかし、神は、むやみに人をさばかれるのでなく、同時に救いのチャンスをも与えておられます。キリストが最初来られた時は、さばくことよりも救うことに焦点をあわせられました。キリストは神の神子、栄光の王ですから、神に逆らうものたちを滅ぼしておしまいになることができました。しかし、もしキリストがそうなさったとしたら、今、私たちの誰も救われていなかったでしょう。キリストは、私たちに対する神のさばきを、ご自分に引き受けることによって私たちを救ってくださったのです。神はノアの洪水の時、人々のために箱舟を用意しておられましたが、今日も、世をさばかれる前に、キリストの十字架を用意しておられるのです。キリストは私たちの救いとなってくださったからこそ、世界をさばく資格があります。誰もキリストの前に言い訳をすることができません。救いのチャンスがあったのに、それを受け入れなかったからです。

 キリストを受け入れた者たちには、再臨は希望です。その時私たちの救いは完成し、「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」新しい世界がやって来るからです(黙示録21:4、2.ペテロ3:13)。キリストがいつ来られてもいいように私たちは、この救いを、この希望を多くの人々に伝えようではありませんか。



共にいてくださるお方 ―使徒信条の学び(9)

 「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」(ヨハネ14:17-18)

 イエスは十字架を前にして聖霊のことを教えておられます。ここで「別に」と訳されていることばには、「同質の」という意味があります。意味を汲んで訳すなら、「わたしと同じ助け主」とでもした方がいいでしょう。もし、イエスがご自分の代わりに、誰が別の人間をを遣わすと言われたらどうでしょうか。その人がどんなに優れた人物であっても、イエスの代わりにはなりません。人間でだめなら、天使ではどうでしょうか。天使が超自然的な存在であって、私たちよりもすぐれていたとしても、天使もまた神のしもべにすぎないのです。イエスの代わりになることはできません。イエスのかわりとなることができるのは、ただひとり、聖霊しかいらっしゃいません。御子は御父の代理であり、御霊は御子の代理です。御子は御父の栄光を表わし、御霊はキリストの栄光を表わします。キリストは天に帰られたからといって、私たちから離れてしまわれたのではありません。キリストは聖霊によって私たちと共にいてくださるのです。

 聖霊は私たちに罪を認めさせる伝道者であり、私たちに真理を教える教師ですが、ここでは、「助け主」と呼ばれています。「助け主」のもともとの意味は「そばに呼ばれたもの」です。ここから、法廷での「弁護人」をさして使われるようになりました。「助け主」というのは、いつでも、すぐに間に合う人のことでなければなりません。どんなに優秀な弁護士がいても、高い弁護料を払わなければならないとしたら、私たちには助けになりません。ところが、あなたの息子さんが、あなたの父親が弁護士だったらどうでしょうか。自分の家にいるのですから、すぐに助けてもらえます。聖霊は数多くのことをしてくださいますが、聖霊のしてくださる第一のことは、私たちと共にいてくださることです。神は、私たちが悩みや苦しみに会うとき、私たちを一人ぼっちにしてはおかれません。私たちには、私たちの内に助け主を持っているのです。



公同の教会 ―使徒信条の学び(10)

 使徒信条は、父、御子、御霊の神に対する信仰告白に続けて、「聖なる公同の教会、聖徒のまじわり」を信じると言います。「公同の」というのは、時代が変わっても、教会が世界中に広がっていっても、イエス・キリストの教会は普遍的な、ひとつのものであるということを表わしています。「聖徒のまじわり」というのは、教会とは何かを言い換えたものです。ふつう人々が「教会」という時には、教会堂のことを指しています。教会には、教会堂が必要ですが、教会堂そのものが教会ではありません。また、教会に組織や制度は必要ですが、組織や制度そのものが教会というわけではありません。教会とは、「聖徒」つまりキリストを信じる者たちのまじわりなのです。私たちが「聖なる公同の教会、聖徒のまじわりを信ず」と言うとき、私たちは、世界に広がるキリストを信じる者たちの大きな神の家族を連想し、その一致を思うのです。

使徒信条が、父、御子、御霊の神への信仰を告白に続けて、「教会を信じる」と告白するのは、教会が、三位一体の神の働きによって存在しているからです。教会は父なる神によって計画され、御子イエス・キリストによってあがなわれ、聖霊によって生み出されました。教会は、神の民、キリストのからだ、聖霊の宮です。また、それは、教会が、父、御子、御霊の神への信仰を言い表わした者たちの集まりだからです。教会は、三位一体の神を告白する者の群れなのです。この信仰、この告白無しに、誰も教会に加わることはできません。

 もちろん、「教会を信じる」と言っても、それは、父、御子、御霊を信じるのと同等に、信仰の対象として信じるという意味ではありません。しかし、「信じる」ということばには、コミットメントの意味も含まれています。私たちが「聖なる公同の教会、聖徒のまじわりを信ず」という時には、教会へのコミットメントを言い表わしているのです。神への信仰と教会へのコミットメントは切り離して考えることはできません。昔から、「母なる教会を軽んじる者は、父なる神を侮蔑する」ということばがあります。父なる神から生まれた者たちを養うのは母なる教会です。キリストにつながる者は、キリストのからだである教会につながるのです。



罪のゆるし ―使徒信条の学び(11)

 ある小学校で、先生が子供たちに磁石のことを教えました。先生は、子供たちに磁石を家に持って帰らせて、家にあるものの中で、どんなものが磁石にくっつくかを試させました。それから、先生は子供たちにクイズをだしました。「 M ではじまるもので、家の中にあるものを pick up するものはなぁに」という質問です。先生は、もちろん、Magnet という答えを期待していました。ところが、クラスの半数が M-o-t-h-e-r と答えたのです。確かに、子供たちが散らかしたものを pick up してくれるのは母親です。母親というものは、子供が汚した服を洗い、散らかした部屋を片づけ、いろんなことの後始末をしてあげるものなのです。それでいて、ちっとも感謝されない、損な役回りかもしれません。しかし、私たち親が、子供の不始末をぬぐってやることを通して、神は、私のためにもっと大きな不始末をぬぐってくださった、ということを思いみることができます。

 前に住んでいた所に引っ越した時のことなのですが、玄関のところにヒーターがあって、そこに換気口のグリルがついていました。長い間掃除をしなかったのでしょうか、ほこりがいっぱいでした。古いTシャツをぼろ布にして、それを拭いていました。あたり前のことですが、グリルがきれいになっていくにしたがって、ボロ布は、最初は白かったのが、灰色になり、そして最後には真っ黒になっていくのです。そして、あちらこちらが破れていくのです。私はそれを見ながら、イエスも、罪のないお方なのように、このぼろ布のようになってくださって、私の罪をご自分にみんな引き受け、ご自分が罪人になることによって、私を罪からきよめてくださったのだと、思いめぐらすことができたのです。?コリント5:21のみことばが心に迫ってきました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」

 私たちは、主の祈りで「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。」(ルカ11:4)と祈ります。使徒信条でも、同じように、自分の罪を心から認め、「私に罪の赦しが必要です。その罪の赦しは、キリストの十字架から来ます。」と告白するのです。赦しの世界の中に生かされて歩む私たちでありたく思います。



罪のゆるしのメッセージ ―使徒信条の学び(12)

 ルカによる福音書5章17-26節に、4人の人が、イエスのおられる家の屋根をはいで、中風の人をベッドのままイエスの目の前に吊り降ろした出来事が書かれています。その時、家の中は騒然としたことでしょう。しかし、みんながざわめいている中で、イエスは、部屋中に響き渡る声で、言われました。「人よ、あなたの罪はゆるされた。」

「あなたの罪はゆるされた。」というのは、この人が失礼なことをしたのを、赦してあげるよと、いう意味ではありません。もし、そうなら、律法学者が「この人は神を汚している」と不満を持つことはなかったのです。この罪とは、もっと根本的な、人間の性質の中に陣取っている、神に対する根深い罪のことです。

 イエスはその後で、この人の病気をなおされましたが、それは、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示すためでした。ここで、イエスは、罪のゆるしが、肉体の病気のいやしよりもすぐれたものであることを教えておられるのです。最近は、罪のゆるしよりも病気のいやしのほうが素晴らしいかのように、いやしをみせびらかす集会がはやっています。そこで全くみことばが語られないわけではありません。集会はみことばで始まるのですが、結論は、いやしやしるしで終わってしまうのです。

 イエスはよみがえられた後、弟子たちにこう言われました。「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。」(ルカ24:46-48)そして、使徒ペテロは「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(使徒2:38)と説教したのです。両方の聖句を読み比べてください。イエスは十字架と復活、悔い改めと罪のゆるしを教え、初代教会もそれをそのとおりに宣べ伝えています。

 現代の教会は、宣べ伝えるべきメッセージを見失っています。イエスがこれを伝えよと私たちに託してくださり、初代教会が宣べ伝えたオリジナルの福音を、私たちは宣べ伝えたいものです。



からだのよみがえり ―使徒信条の学び(13)

 使徒信条が告白する「罪のゆるし」は、イエス・キリストの十字架と復活によって、今、悔い改めで信じるものにあたえられるものですが、「からだのよみがえり」は、やがてイエス・キリストの再臨の時に与えられるものです(ピリピ3:20-21)。私たちの体がクリメイトされて、灰になろうと、埋葬されて土になっていても変わりはありません。土のちりから人間を創造された神は、私たちの塵(ちり)、灰になってしまった体をもう一度新しく作りなおし、魂と体を再び結びつけくださるのです。

 この復活のからだは、キリストが復活された時の体と同じような新しいからだです。それは、年をることもなければ、病気や欠陥のないものです。それがどんなものか、今はまだ詳しくはわかりません。しかし、それが完全なものであることには違いありません。コリント人への第一の手紙15章は、それを、霊の体、栄光の体と呼んでいます。

 ローマ8:18-23にも、私たちのからだのよみがえりのことが記されています。「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」キリストが二千年前に来てくださったのは、私たちの罪を赦すため、私たちの魂の救いのためでした。もうしばらくして、キリストが来てくださる時には、世界に入り込んだ罪をすべて解決し、世界をまったく新しくつくり変えてくださるのです。新しい天と、新しい地をつくり出してくださるのです。そして、神は新天新地をつくり出す最初の作業として、私たちをいわば、被造物の初穂として、つくり変えてくださるのです。というのは、人間の堕落によって世界が壊されましたから、世界の回復は、私たちの救いの完成なしにはあり得ないからです。「からだのよみがえり」を信じる私たちは、神が私たちの救いを完成させてくださること、神がこの世界全体を救ってくださることを信じているのです。



永遠のいのち ―使徒信条の学び(14)

 永遠のいのち、それはいつ受けるものでしょうか。聖書は、キリストを信じる者は今、すでに永遠の命を持っていると教えています。ヨハネ5:24には、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。ところが、他の個所では、永遠の命は、キリストの再臨の時に報いとして与えられると言われています。ルカ18:29-30で、イエスは「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」と言っておられます。パウロも、?テモテ6:12で「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」と勧めています。永遠の命は今持つものか、将来受けるものか、どちらなのでしょうか。聖書は矛盾する二つのことを書いているのでしょうか。

 正解は、永遠のいのちは現在のものであり、同時に未来のものであるということです。聖書は永遠のいのちの二つの面を別々の観点から書いているのであって、矛盾はないのです。それは、ちょうど、神の国が将来のものでありながら、現在のものであるのと、同じことです。目に見える形で、世界が神の支配に服従するのは、キリストの再臨の時まで待たなければなりません。しかし、神の恵みの支配は、キリストを信じる者たちの中に、キリストにより、聖霊によりすでにもたらされています。この意味で、神の国はすでに来ているのです。同様に、永遠のいのちも、キリストにより、信仰により、現在のものとして先取りされているのです。私たちは、救われた時、新しく生まれかわります。その時、永遠のいのちを受けました。肉体のいのちは限りがあり、年齢とともに衰えていきます。しかし、霊的ないのちは、成長しつづけ、増し加わり、永遠になくなることはないのです。神の国では、永遠のいのちがすべてを支配するのです。永遠のいのちを持たないものは神の国に入ることができません。永遠のいのちは現在のものであり、同時に将来のものです。

 そして、私たちは、将来の永遠のいのちを追い求め、そのために励むことによって、今、永遠のいのちに生かされていることをあかしするのです。



いのちへの道 ―使徒信条の学び(15)

 マタイ19:16に、ひとりの裕福な青年がイエスに「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねたとあります。若くて裕福な人は、現時点での幸福を求めるものであって、永遠のいのち云々といったことを、めったに求めはしないものですが、この若者は違っていました。なのに、この熱心な彼に対して、イエスはなぜか冷たく答えられます。「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい。」(19:17)

 イエスは、人間がいましめを守ることによって永遠のいのちを勝ち取れると本当に思っていらっしゃったのでしょうか。人間が神の戒めを完全に守れると思っていらっしゃったのでしょうか。いいえ、イエスは、人は神の戒めを完全に守れるものではないということを彼に教えたかったのです。イエスが彼に示された「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え。」という戒めは、最も基本的な戒めで、ユダヤ人なら守ってあたりまえと、この人は思ったことでしょう。しかし、これらの戒めは「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」という別の戒めに要約することができます。彼は、個々の戒めは形式的には守ってはいても、「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」という戒めの中に生きていませんでした。イエスはこの人に、彼の罪を分らせようとして、言われます。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」彼は、財産をひとりじめにして、決して隣人のために与えようとしなかった自分の罪に気付かなければならなかったのです。永遠のいのちは、「私は永遠のいのちにふさわしい」と考えている人に与えらるのでなく、むしろ、自分の罪の赦しを願い求める者に与えられるのです。

 「永遠のいのち」それは自分の努力で神の手からもぎ取るものではありません。ローマ6:23に「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」とあるように、永遠のいのちは、イエスがご自分の命と引き換えに私たちのために与えてくださる「賜物」、ギフトなのです。キリストご自身が永遠のいのちへの唯一の道です。