ここにはおられません

ルカ24:1-9

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24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。

 きょうはイースター。教会には、レントの期間、「ハレルヤ」を含む賛美を控えるという伝統があります。レントの期間、それをためておいて、イースターに一気に爆発させるのです。イースターの礼拝では、司式者が「主はよみがえられた」、「主イエスはよみがえられた」、「じつに主はよみがえられた」と三度宣言します。一同は、そのたびごとに「ハレルヤ」で答える慣わしがあります。私たちもそうしましょう。

 主はよみがえられた。―― ハレルヤ!

 主イエスはよみがえられた。―― ハレルヤ!

 じつに主はよみがえられた。―― ハレルヤ!

 一、墓に向かう人々

 イエスが亡くなられたのは安息日の直前だったので、イエスは急いで葬られました。女の弟子たちは、イエスが葬られた墓を確認することまではできましたが、イエスのからだに香油を塗ることはできませんでした。安息日が明けた週のはじめの日の朝早く、彼女たちは、「せめて今からでも」と、香油を持って墓に向かいました。

 墓に向かう彼女たちの心には、どんな思いがあったでしょうか。「なぜ、正しい方が極悪人がかかる残酷な十字架にかけられたのか」という疑問、「イエスこそ私たちを救ってくださると信じていたのに」という失望、「せめても墓に葬られただけでもよかった」という慰めなどが入り混じっていたことでしょう。心が乱れていたことだけは確かでした。

 死者に捧げる香油を持って墓に向かう彼女たちの姿は、私には希望なく死に向かう多くの日本人の姿と重なって見えます。日本人のほとんどは、知らず知らずのうちに仏教の影響を強く受けており、「この世のものはすべて移り変わる。人が死ぬのはあたりまえだ」と考えています。鎌倉時代に、鴨長明は『方丈記』にこう書きました。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。…朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。」また、室町時代の一休禅師は「生まれては死ぬるなりけりおしなべて、釈迦も達摩も猫も杓子も」という狂歌(風刺の歌)を作りました。いろは歌も、「色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ」と「無常」を歌ったものです。

 死は避けられないもの、誰も逆らうことのできないもの。だから、死を克服しようなどとジタバタしてはいけない。死を恐れるのは、この世に執着があるからで、そうした執着を断ち切り、死という現実を素直に受け入れる、それが仏教で言う「悟り」というものなのでしょうが、それは、実際は、「あきらめ」でしかないのです。どんなに理屈を並べてみても、私たちのたましいのうちには死のかなたにも続く命への憧れがあります。みずから仏教徒だと言う人も、亡くなった方は「天国に行った」と言いますし、自分は無神論者だと言う人も、死を迎えるときには、「神さま」と祈ります。神は、あらゆるものに命をお与えになった「生ける神」です。神が、私たちのたましいに永遠の命への希望を植え付けられたのです。伝道者の書3:11に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた」とあります。神は、すべての人に「永遠を思う心」を与えてくださったのです。私たちは永遠の命の希望を「悟り」や「あきらめ」という言葉で消し去ってはいけないと思います。永遠の命を求める者には必ずそこに至る道が示されます。神は、イエスのよみがえりによって、永遠の命と、それに至る道を明らかにしておられるからです。

 二、墓で聞いた知らせ

 さて、墓に向かう女の弟子たちには一つの心配がありました。墓の入り口を塞いでいるいる大きな石をどうやって動かせるだろうか、女の力できるだろうかという心配でした。ところが墓に着いてみると、その大きな石が転がっていて、墓の入り口は開いていました。中に入って見るとイエスのからだがないのです。彼女たちが途方に暮れていると、御使いが現れ、こう告げました。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

 エルサレムに「園の墓」という場所があります。イエスが葬られた場所も、今では地面の下になっていますが、後になって別の場所に、イエスが葬られたときの墓を思わせるようなものが見つかりました。それが「園の墓」です。この墓の入り口に、「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」と書かれています。人々は、尊敬する人物の墓を訪れ、その人を偲びます。しかし、イエスの墓に行っても、そこは空っぽなのです。イエスはそこにおられません。イエスはよみがえり、今、生きておられ、私たちと共におられます。私たちは、信仰により、聖霊の働きにより、今、ここで、イエスにお会いすることができるのです。

 女の弟子たちは「生きている方を死人の中に捜す」という過ちを犯してしまいましたが、今も、多くの人が、イエスを「死人の中に」捜しています。つまり、イエスを二千年前の「過去の人」としてしか理解していないのです。また、聖書も、古典として読むだけなのです。イエスが、今、ここに生きておられ、私たちを愛し、助け、導いてくださる。聖書は、生きた神の言葉であって、今も、その約束が実現するのを見ることができる。そのことを忘れているのです。

 女の弟子たちは墓で「イエスは生きておられる」とのメッセージを聞きました。よみがえりのメッセージが墓の中から響き渡ったのです。生きたお方を死者の中に捜すのは愚かなこと、矛盾したことですが、命の言葉が死者の場所から語り出されたのは、驚くべきこと、また喜ばしい矛盾です。これは、イエスがご自分の死によって死を滅ぼしてくださったことを教えています。イースターの賛美に「十字架を忍び、死にて死に勝ち、生きて命を人にぞたもう」とありますが、まさにイエスは、ご自分の死によって死を死なせ、死に勝利されたのです。イエスは私たちの罪の身代わりに死に、それによって私たちの罪を赦してくださいましたが、そればかりでなく、罪の結果である死をも滅ぼし、罪と死に縛られていた私たちを解放してくださったのです。イースターは、私たちの赦しの日、勝利の日です。

 三、墓から戻った人たち

 天使たちの言葉を聞いた女性たちは、どうしたでしょうか。ルカ24:9には、「そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した」とありますが、マルコ16:8には「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。相反することが聖書に書かれているようですが、実際のところは、天使のメッセージを聞いた人たちの反応が二つに分かれたということでしょう。イエスが復活されたことが分かってそれを伝えた人たちと、それをすぐには信じられなかった人たちとがいたということです。あとのほうの人たちは、イエスが十字架に死なれたことによって、混乱していましたが、イエスのからだが墓から消えてしまったことによって、さらに混乱してしまったのです。

 英語に“chtastrophe” という言葉があります「大惨事」という意味で、9.11、や東日本大震災、それにトルコの震災のようなものを指します。イエスの十字架はまさに“chtastrophe” でした。これに対して復活は、“euchtastrophe” です。これは、「突然の幸いな回復」、「ハッピー・エンド」という意味で使われますが、直訳すれば、「良い大惨事」です。確かにイエスの復活は、イエスの十字架と同じように弟子たちに動揺を与え、混乱を強くしました。しかし、それは、同じ動揺と混乱でも、良い混乱、幸せな動揺でした。恐ろしくて逃げてしまった女の弟子たちも、イエスの復活を信じられなかった男の弟子たちも、皆信じる者となり、イエスの復活の証人となりました。ペンテコステの日には、そうした人々が十二弟子をはじめとし、男も女も、百二十名もエルサレムに集まり、「イエスはよみがえられた」、「イエスは生きておられる」と証しをしたのです。

 女の弟子たちも、男の弟子たちも、この動揺、混乱から、どのようにして確かな信仰へと導かれたのでしょうか。それは、イエスの言葉を思い出し、理解することによってでした。御使いはこう言いました。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(6-7節)「まだガリラヤにおられたころ」とありますが、イエスはエルサレムに向われる前から、ご自分の苦難を知らせていました。そして、そのつど、ご自分のよみがえりについても告げていました。しかし、弟子たちは、そのことを心に留めていなかったのです。そのために、実際に十字架があり、復活があっても、それを理解せず、すぐに信じることができなかったのです。

 きょうの箇所に続くところには、よみがえられたイエスが二人の弟子に現れ、彼らに聖書を解き明かしたことが書かれています。二人は、それによって、イエスの十字架がすべての人の救いのためであり、復活がその力強い証拠であることを理解しました(ルカ23:13-35)。このように、御言葉が私たちにイエスの救いを理解させてくれるのです。天使は羊飼いたちに現れ、「救い主がお生まれになった」とイエスの誕生を知らせました。イエスの墓にも御使いが現れ「ここにはおられません。よみがえられました」とイエスの復活を告げました。しかし、これらは特別なことで、いつでも、天使が現れて、神からのメッセージを伝えてくれるわけではありません。神が私たちに聖書をお与えくださった後はなおのことです。今、私たちは、聖書によってイエスの言葉を聞き、それを理解するのです。

 イースターは世界中で祝われています。しかし、アメリカでは、イースターの主人公はいつのまにかイースター・バニーになりました。エッグハントをし、Peeps を食べますが、多くの人が、その意味を知らずにいます。もし人がイースターのほんとうの意味を知るなら、その人生は変わります。イエスがよみがえられたことを知らず、墓に向かっていた女たちは、「ここにはおられません。よみがえられたのです」との知らせを受け、それを理解したときどうしたでしょうか。「恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った」(マタイ28:8)のです。意味も、目的も、また、生きる力もなく、ただ死に向かっていた人生がイエスの復活の命によって生かされ、永遠の命を目指して走り出す、人生へと変えられます。私たちは、「イエスは墓にはおられません。生きて私のうちにおられます」と証しする者とされるのです。

 (祈り)

 イエス・キリストの父なる神さま。イエスの十字架の意味も、復活の事実も知らず、罪と死に縛られていた私たちでしたが、イエスの十字架と復活によって、罪を赦され、自由にされ、あなたの子どもとなり、永遠の命に生かされていることを感謝します。私たちを救ったこの十字架と復活のメッセージが、さらに多くの人に届き、それらの人々がそれを理解し、信じ、イエスの御名がさらに崇められますように。そのために、私たちが何をしたらよいかを教えてください。それを実行できるよう助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/9/2023