21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
一、愛の神
「神さまって、どんなお方ですか。」そうきかれて、皆さんはどう答えますか。「神はすべてのものの造り主です」、「全知全能です」などと答えることができるでしょう。聖書には「神は霊です」(ヨハネ4:24)、「神は真実です」(コリント第一1:9)、「神は唯一です」(テモテ第一2:5)といった簡潔な表現がありますが、その中で一番よく知られているのは「神は愛です」(ヨハネ第一4:16)でしょう。「神は愛です。」これは、神が私たちにとってどのようなお方かを見事に言い表しています。神は「私を愛しておられるお方」、神と「私」とが「愛」で結ばれている。そういったことを教えています。
多くの人は、「神」の存在を認めはしますが、神を、世界の「第一原因」であるとか、「宇宙の法則」や「宇宙のエネルギー」、また、「歴史や人生を導く力」といった「非人格」なものと考えています。しかし、「愛する」ことは「人格」を持つ者だけができることですから、「神は愛です」という言葉は、神が「人格」を持ったお方であることを教えています。
人格には、「知・情・意」があると言われます。知識と感情と意志のことです。神は、知恵と知識、また意志を持っておられます。しかも、すべてのことを知り、その意志のままに事を行うことができる「全知全能」のお方です。神をそのようなお方として信じることは信仰の基礎です。使徒信条も「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」で始まっています。しかし、そのすぐあとに、「われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」と続いています。「独り子イエス・キリスト」、この言葉はヨハネ3:16から取られた言葉です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、神の愛が語られている箇所です。「愛すること」には「感情」が含まれますから、神は「知・情・意」のすべてを備えた「ご人格」であることが分かります。
「旧約の神は怒りの神だが、新約の神は愛の神である。」人々がよく口にしますが、これは「俗説」で間違っています。日本では、大学教授だという人でさえ、そんなことを書物に書いていますが、そういう人は聖書を知らないばかりか、ものごとを調べた上で発表するという学問的な良心のない人です。神が人を愛しておられることは旧約の中に繰り返し書かれています。申命記7:7には、「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった」とあります。「主があなたがたを慕い」は以前の訳では「主があなたがたを恋い慕い」となっていました。これは、恋人たちが互いに惹かれあうような情熱的な愛を表す言葉です。また、エレミヤ31:3で神は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」と語っておられます。神は永遠に変わらないお方、神の愛も「永遠の愛」、「変わらない愛」です。神の愛は、決して、気まぐれなものではなく、「真実の愛」、「本気の愛」です。神はそのような愛で人を愛しておられる。それは旧約の中にも表されています。
二、十字架の愛
神は、旧約時代も、新約時代も変わらない「愛の神」です。けれども、その愛は、新約時代には、イエスを通して、旧約時代よりももっと明らかに示されています。「旧約の神は怒りの神、新約の神は愛の神」というのは間違ったステートメントですが、「新約時代には、旧約時代よりも神の愛がより明らかに示されている」というのは、正しいことです。
ヨハネは、ヨハネ3:16ばかりでなく、ヨハネ第一4:10でも、こう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ヨハネは、十字架を指さして、「ここに愛がある」と言いました。あの十字架の上で、イエスが私たち罪びとを愛して、私たちに代わって罪の刑罰を受け、私たちの罪を赦してくださったからです。愛は、一般には「ハート」の形で表されますが、神の愛は「十字架」の形で表されます。どの教会にも十字架が掲げられ、クリスチャン・ホームなら、どこかに十字架が飾られているでしょう。十字架のペンダントを身に着けている人も多いと思います。「十字架」、それは本来はむごたらしい処刑の道具で、いまわしいもの、のろわれたものです。ギロチンや電気椅子のような処刑道具を飾ったり、身に着けていたら気が狂った人だと思われるでしょう。しかし、十字架は、イエスがそこにかかられ、私たちを救ってくださったものです。それによって、十字架は辱めでなく栄光を、弱さでなく力を表すものとなりました。十字架は罪と死に対する勝利のしるしです。ですから、私たちはそれを誇ります。十字架は、神とイエスの私たちへの愛のしるしです。ですから、人々はそれを慕うのです。
宮本武蔵は「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」と言いました。「神や仏は尊敬しこそすれ、頼るものではない」というのですが、同じように考えている人は多いと思います。神との「おつきあい」は、年に一、二度お参りしておく程度でよい多くの日本人は考えているでしょう。私たちも、イエスの十字架が私たちのためだったと知るまで、神が愛であることが分かりませんでした。神は私たちから遠い存在でした。自分が神に愛されていることを知らなかったために、劣等感に囚われることもありました。何をしても自信が持てない、いつも不安でしょうがない、そんな日々を送っていました。たましいが飢え渇いていたのです。そして、さまざまなもので飢えを満たし、渇きを癒やそうとしてきましたが、満たされたと思ったらすぐに飢え、潤されたと思ったらすぐに渇く。そんなことを繰り返して、失望、落胆、あきらめの中に生きてきました。神の愛を知らず、持たないため、人生を力強く歩むことができなかったのです。
両親に愛されないで育った人や、人を愛したのに、その愛を裏切られた人の中には、愛することをやめてしまった人も多くいると思います。けれども、人にとって、愛することは生きる力です。喜びです。愛することをしなくなった人は、生きる力も、喜びも失ってしまいます。私たちは、変わらない真実な愛で私たちを愛してくださるお方を知りました。安心してその愛を受けることができ、私たちが愛をささげて裏切られることのないお方を私たちは知ったのです。イエスを信じ、その愛を受け入れたとき、私たちは、それによって人生に消えない希望を受けました。それ以来、私たちの心に神の愛が注ぎ続けられています。聖書がこう言っている通りです。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)。
「神は愛です」、「神は私たちを愛しておられる」、この基本的なこと、大切なことを多くの人が知らないでいます。私たちが神からいただく愛の注ぎをあふれさせ、まわりの人々に神の愛を証ししたいと思います。
三、イエスへの愛
私たちは神に愛されています。しかし、同時に、神は私たちに神を愛することを求められます。神が私たちに、ご自分への愛を求められるのは、神が愛であることの証拠の一つです。ほんとうの愛は一方通行の愛ではなく、互いに愛し、愛され合う、双方向の愛を求めます。私たちを愛されたイエスは、ご自分への愛も求められます。
イエスは復活されたのち、ガリラヤ湖で弟子たちのために朝の食事を用意されましたが、そののち、ペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」(15節)このイエスの言葉は、ペテロが他の弟子たちの前で、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と言ったことと関連があります。そのときのペテロは、自分の信仰は他の弟子たちに勝っていると思い込んでいましたが、実際はそうではありませんでした。「自分こそイエスの一番弟子だ」と自負していましたが、結果は惨めなものでした。「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と言われたとき、ペテロは、かつてのように、「他の誰よりもあなたを愛しています」と胸をはって言うことはできませんでした。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」としか言うことができませんでした。
すると、イエスはもう一度、ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われました。二度目には、イエスは「この人たちが愛する以上に」とは言われませんでした。ペテロは、このときも、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました(16節)。
ところが、イエスは、もう一度同じ質問をされました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ペテロは三度も言われるとは思ってもいませんでしたが、すぐに、なぜイエスが三度も同じ質問をされたのを悟ったことでしょう。それは、イエスが大祭司の官邸で審問を受けているとき、ペテロが三度も「イエスなどという人は知らない」と言ったからです。ペテロが、イエスの三度目の質問に「心を痛めた」(17節)のはそのことを思い起こしたからでしょう。イエスは、ペテロがイエスを否んだことをすでに赦しておられましたが、他の弟子たちの前で、三度、イエスへの愛を告白させることによって、ペテロを初代教会のリーダーとして用いようとされたのです。実際、ペンテコステの日に説教したのはペテロでしたし、ユダヤの最高議会が目をつけて迫害したのもペテロでした。使徒の働きの前半の中心人物はペテロで、ペテロはイエスの言葉通り、イエスの羊の群れである教会の牧者として殉教の時まで、イエスに仕え続けました。
ヨハネは、イエスがペテロに「あなたはわたしを愛していますか」と言われたエピソードでその福音書を閉じています。それは、「あなたはわたしを愛していますか」との問いは、ペテロだけに与えられたものではなく、今日のキリストの弟子、また、ヨハネの福音書を読むすべての人への問いかけだったからだと思います。イエスは今も、私たちに、「あなたはわたしを愛していますか」と問いかけておられます。
私たちも、イエスにお答えしましょう。私たちは、まごころからの愛で神を愛したい、神が私たちを「恋い慕う」ほどに愛しておられるのですから、私たちも神を慕う熱い愛をささげたい、イエスが私たちのためにご自分を献げられたように、私たちの愛も、労苦や犠牲をいとわないものでありたいと願い、努力しています。けれども、そうしようとするたびに、私たちは、私たちの愛があまりにも小さいことに気付きます。ペテロは失敗を通して、自分の愛の小さいことを痛いほど知りましたが、私たちも同じです。「私の神への愛、イエスへの愛は、神が求めておられる基準には届かいかもしない。今は、『愛しています』と言っていても、試練にくじけ、誘惑に負けてしまうかもしれない。」そう思ってしまいます。ですから、ペテロが「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言ったように、私たちも、「あなたを精一杯愛します。私の足らない愛をも受け入れてください」と謙虚な心で、お答えしたいと思います。しかし、はっきりとした決意をもって、「イエスさま、あなたを愛します」とお答えしたいと思います。
(祈り)
愛の神さま、あなたは、イエスの十字架によって、大きな愛を示してくださり、私たちがあなたに愛され、あなたを愛する、相互の愛の関係に招いてくださいました。イエスの「わたしを愛していますか」との問いを聞き、それに答え、あなたの愛によって生かされ、あなたを愛して生きる日々を送ることができるよう導いてください。イエスの十字架の愛を思い、そのお名前で祈ります。
5/4/2025