さあ、朝の食事を

ヨハネ21:12-14

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21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。

 『日々の聖句』の5月9日の記事に、こんなふうに書かれています。「全能の神は、人間をどのようにでも作ることがおできになりました。例えば、日光浴をすれば光合成が行われ、それで生命を維持するのに必要な栄養が得られるように造ることもできました。現に、植物の殆どはそのようにして生命を維持しています。しかし神は、私たち人間を、食事をする存在としてお造りになりました。そこには、何かしらの神の意図や目的があるものと思われます。」もし、人が植物のように光を受けて養分を作り出すことができたら、食べ物を買う必要も、食事をする必要もなくなるので、便利だろうと思うのですが、神は、私たち人間が、外部から食べ物を取り入れて生きるようにされました。神は食事を通して大切なことを教えようとされました。きょうの箇所にある朝の食事にはどんな意味があったのでしょうか。三つのことを考えてみましょう。

 一、生かす食事

 私たちが食事を摂らなければ生きていけないということは、私たちの命が食べ物に依存していることを意味しています。そして、それは、私たちの命が、食べ物を与えてくださる神によって支えられていることを教えてくれます。

 確かに、人は田畑を耕したり、家畜を育てたりして食べ物を確保します。けれども、農業や牧畜は自然環境に大きく左右されます。寒い日が続けば作物は実りませんし、ひでりが続けば、枯れてしまいます。農作物がとれなくなれば、家畜を養うこともできません。病気が流行れば、家畜が全滅してしまうこともあります。食べ物を得るためには人間の努力が必要ですが、それ以上に、神の恵みが必要なのです。私たちに食べ物を与え、私たちの命を保ち、養ってくださるのは、最終的には神です。聖書にこうあります。「主は 家畜のために草を/また 人が労して得る作物を生えさせます。/地から食物を生じさせてくださいます。」(詩篇104:14)「すべての目はあなたを待ち望んでいます。/あなたは 時にかなって/彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)

 人の命は神によって生かされ、支えられている。イスラエルの人々がエジプトを出たあと、荒野に導かれたのはそのことを学ぶためでした。エジプトにいたとき、彼らは重労働にあえいでいましたが、食べ物だけは豊かにありました。エジプトから脱出して荒野をさまよったとき、人々は、はじめて飢えと渇きを体験しました。そして、「食べ物がない。飲む水がない。エジプトでは魚も、きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも食べられたのに」と不平不満を鳴らしましたが(民数記11:5)、神は、荒野で、必要なときに、必要な食べ物を与え、飲む水を与えてくださいました。人々は、そのことによって、自分たちを生かしているのは、目に見える農作物や家畜ではなく、地に実りを与え、家畜を増やしてくださる神の恵み、あわれみであることを学んだのです。

 モーセはイスラエルの人々にこう言いました。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)人はからだだけでなく、霊とたましいを持つ存在です。からだを養う食べ物でさえ、神が自然界に命じて雨を降らせ風を吹かせ季節を巡らせた結果得られるものだとすれば、私たちの霊を生かし、たましいを養うものは、神の口から出る一つひとつの言葉でなくて何なのでしょうか。

 イエスは、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)と言われました。イエスはご自分を「パン」と呼ばれましたが、ヨハネの福音書はその前にイエスを「ことば」と呼んでいます。イエスは「パン」は「パン」でもからだを養うだけの「パン」ではなく、それによって人の霊を生かし、たましいを満たす神の「ことば」なのです。

 きょうの箇所は、イエスが復活された後、ガリラヤ湖で弟子たちのために朝の食事を用意されたときのことを記しています。それは、夜通し漁をして、お腹を減らし、疲れ切った彼らを満たし、ねぎらうための食事でした。イエスがご自分で炭火をおこし、パンを焼き、食事を用意しておられたのです。弟子たちはどんなに感激したことでしょう。この朝の食事によって、弟子たちは、自分たちを生かし満たし養ってくださるのは、まことの「パン」であり「ことば」であるイエスの他ないことを知ったことでしょう。

 私たちの人生にも、暗い夜のような時があります。夜は安息のときなのに、からだの痛みや心の重荷のために、夜に何度も目を覚ますようなことがあるかもしれません。さまざまな重荷に押しつぶされて疲れ切ってしまうことがあります。しかし、やがて、朝はやってきます。イエスが私たちに朝の光をくださるのです。そして、私たちに呼びかけてくださいます。「さあ、朝の食事をしなさい。」イエスのもとに行きましょう。イエスの備えてくださる食べ物、いや、私たちを生かす神のことばそのものであるイエスご自身によって、私たちの霊も肉も癒やされ、満たされ、養われましょう。

 二、和解の食事

 この朝の食事は、弟子たちを生かす食事でしたが、それとともに、この食事は、イエスと弟子たちとの「和解の食事」でした。古代には、二人の人や二つのグループの間に争いごとがあっても、話し合ってその問題を解決し、和解が成立したときには、たがいにそれを喜びあうために、一緒に食事をする慣わしがありました。それは現代のパレスチナでも行われており、「食卓」を意味する言葉から「スルハ」と呼ばれています。放蕩息子の譬えでは、父親は、弟息子が罪を悔い改めて帰ってきたとき、彼を受け入れ、しもべたちに「肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう」と命じて、弟息子のために宴会を開いています。それは、父親が弟息子を赦し、二人の間に和解が成立したことを表すものでした。

 ガリラヤ湖のほとりでの朝の食事も、イエスのほうから弟子たちに提供された「和解の食事」でした。ペテロをはじめ弟子たちは、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言いましたが、イエスがゲツセマネで捕まえられたとき、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまいました。ペテロは大祭司の官邸の中庭まで入り込みましたが、そこで、まわりの人々から「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」と言われたとき、「そんな人は知らない」と言って、三度もイエスを「知らない」と言ったのです(マタイ26:69-74)。

 ですから、ほんとうなら、ペテロをはじめ弟子たちはよみがえられたイエスにその罪を言い表して赦しを請わなければならなかったのですが、イエスは弟子たちの心に十分な悔い改めがあることをごらんになって、弟子たちの罪を赦し、ご自分のほうから「和解の食事」を提供されたのです。弟子たちは、イエスが自分たちを赦し、受け入れてくださった恵みを、この朝の食事とともにしっかりと味わったことでしょう。

 ヨハネの黙示録に「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)との言葉があります。そこで言われている食事も「和解の食事」です。私たちはみな、日々に罪の赦しとイエスとの和解を必要としていますが、イエスは、その和解を、イエスのほうから提供してくださるのです。イエスが和解を必要とする私たちの心の戸口に来て、その戸を叩いておられるのです。

 けれども、私たちは、イエスをお迎えしようにも、自分たちにはイエスをもてなす食事の用意がない。そう思ってしまうことがあります。でも心配はいりません。イエスは片方の手で戸をたたいておられますが、もう一方の手はどうしておられるのでしょうか。これは、私の想像ですが、イエスはもう一方の手には、私たちと一緒に食べようと準備されたごちそうをかかえておられると思います。私たちの食卓に何もなくてもいいのです。イエスをお迎えしさえすれば、イエスが持ってこられた恵みと祝福のごちそうをいっしょに食べることができるのです。イエスは、私たちに赦しと和解を与え、イエスとともにその喜びを分かちあうために私たちのところに来てくださいます。そんな恵み深い主を、いつまでも戸の外に立たせていいはずがありません。喜んでドアを開き、主をお迎えしましょう。

 三、派遣の食事

 この朝の食事はまた、派遣の食事でもありました。弟子たちは、一晩中漁をしましたが、何もとれませんでした。岸にもどろうとしたとき、そこに一人の人が立っていました。その人が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と語りかけるのが聞こえました。その言葉通りに網を打つと、なんと網を船に引き上げられないほどの魚がとれました。ヨハネは、岸辺に立っていたのがイエスだと気付きペテロに教えました。ペテロは裸だったので、着物を着て湖に飛び込みました。

 これと同じことは、ペテロや他の弟子たちがイエスに従い始めたときにもありました。あのときも、一晩中漁をしたのですが一匹もとれず、むなしく網を洗っていました。しかし、イエスの言葉に従うと、船が沈むほどの魚がとれたのでした。そのときペテロはイエスの足もとにひれ伏し「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言いました。けれども、イエスはペテロを立ち上がらせて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」と言われたのでした(ルカ5:1-11)。

 そうです。イエスはペテロをはじめ弟子たちがイエスに従い始めた、あの最初の体験を思い起こさせ、弟子たちを、もう一度「人間を捕る漁師」、福音を語って人々をイエスのもとに導く使命をお与えになったのです。

 ヨハネ21:11に「網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった」と書かれています。「153」、何かミステリアスな響きがありますが、じつは、当時、人々は魚の種類を「153」に分けていました。ガリラヤ湖には「153」種類もの魚はいませんから、とれたのは同じ種類の魚だったかもしれません。けれども魚の全種類を示す「153」匹の魚がとれたのは、弟子たちがやがて、ユダヤの人々だけでなく、全世界のあらゆる人々に福音を伝えるようになることを示すしるしであったと思います。

 弟子たちは、イエスの十字架のとき、大きな躓きを経験しましたが、恵み深いイエスは、そんな弟子たちを赦し、受け入れたばかりでなく、彼らを神の国の大使として、世界の国々へと遣わされたのです。大使がある国に遣わされるときには、親任式があり、派遣のレセプションが行なわれます。この朝の食事はいわば、そのレセプションの食事でもあったのです。

 イエスと弟子たちの朝の食事、イエスはそれによって、弟子たちの飢えと渇きを癒し、それを「満たしの食事」としてくださいました。また、イエスはそれをイエスとの親しい交わりを取り戻す「喜びの食事」とされました。さらに、イエスは、その食事を弟子たちに宣教の使命を与え、世界に送り出す「祝福の食事」とされたのです。イエスは、今も、私たちのために、同じように、「満たし」と「喜び」と「祝福」の食事を用意しておられます。それによって身も心も強められましょう。イエスとの親しい交わりに導かれましょう。そして、イエスの証し人として出て行く力をいただきましょう。そのために、「来なさい」と招いておられるイエスのもとに行きましょう。私たちの心の戸を叩いておられるイエスを迎えましょう。そして、イエスからの使命をいただいて、イエスとともに出かけましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、私たちはイエスこそ、私たちを生かし、満たし、養ってくださるお方であることを学びました。「パン」であり「ことば」であるイエスによって、私たちの霊は生かされ、からだも癒やされ、たましいが養われます。つねにイエスを求め、イエスを受け入れ、イエスに従う者としてください。恵み深いイエス・キリストのお名前で祈ります。

4/27/2025