イエスの平安

ヨハネ14:27; 20:19-20

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14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 イエスは最後の晩餐を終え、十字架にかかられる前、弟子たちにいくつもの大切なことを語られました。その中から、前々回は「愛の戒め」について、前回は「復活の喜び」について学びました。きょうは、「イエスがくださる平安」について学びましょう。

 一、世の平安

 「平安」には、「平和であること」、「平穏であること」、「無事であること」といった意味があります。それは、誰もが望むことですから、挨拶に使われて、「平安でありますように」と、互いに言葉を交わします。ヘブライ語では「平安」、「平和」は「シャローム」と言います。イスラエルでは、「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんわ」、「おやすみなさい」、「さようなら」など、何でも「シャローム」で済みます。韓国語でも、「アンニョン」で、ほとんどの挨拶ができるそうです。韓国語の「アンニョン」は日本語では、「安寧」です。「安寧」には、「心が穏やかであること」、「社会が平和、安全で秩序だっていること」といった意味があります。社会が乱れることを、「社会の安寧が乱された」などと言います。

 神を信じる私たちは、「平安がありますように」と挨拶するとき、神からの平安、平和があるようにと、心を込めて、その言葉を使いますが、神からの平安、平和を知らない人々は、それを、平穏無事であるように、トラブルがおこりませんようにといった意味でしか使いません。イエスが言われた平安は、そのようなものにはるかに勝る平安を与えると約束されました。

 普段と違ったことが起きたとき、私たちは、誰でも、慌ててしまい、冷静な判断ができなくなります。そんな時は、「深呼吸して、心をしずめなさい」と言われます。そして、冷静さを取り戻し、事に当たるとうまくいきます。ものごとにあまりに心配してしまうと、実力を十分に発揮できなくなります。そんなとき、誰かが「大丈夫」、「心配いらない」と言ってくれると、気持ちが楽になります。「世の平安」とは、そのようなものです。表面的なもので、あるときには、「気休め」でしかない場合もあります。「世が与える平安」は、自分の心の持ち方で変えることができる状況では役に立つかもしれませんが、自分の心の持ち方や、人間の力ではどうすることもできない状況では、何の役にも立たないのです。

 このとき弟子たちが直面していた状況は深刻なものでした。弟子たちは、イエスこそキリストで、イスラエルをローマから解放して独立国とし、社会から、あらゆる不義や不正を取り除いてくれると信じて、自分たちの職業や財産を捨て、イエスに従いました。過越の祭のとき、イエスがエルサレムに入城されると、人々は、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と賛美して迎えました(ヨハネ12:13)。弟子たちはそれを見て、この過越祭が終われば、イエスはご自分をイスラエルの王と宣言し、ご自分の国を打ち立てられる。弟子たちはそう期待していたことでしょう。

 ところが、イエスは捕まえられ、大祭司によって罪に定められ、総督ピラトのところに連れていかれ、ローマ兵に鞭打たれ、十字架にかけられ、死んでいかれました。イエスの死は、イエスに一切を託していた弟子たちのあらゆる希望の死、その終わりを意味していました。イエスの死後、弟子たちは、これから何のために、どのように生きていったらよいのか分からなくなりました。生きる意味も目的もなくしてしまったのです。

 そればかりではなく、弟子たちは、たちまち命の危険にさらされることになりました。イエスを亡き者にした人々は、弟子たちをも根絶やしにしようとしていたのです。弟子たちがエルサレムにいることはとても危険なことでしたが、そこから逃げ出すこともできず、ひとところに隠れて、怯えきっていました。そんな弟子たちに、「世の平安」が何の役に立つでしょうか。たんに心を落ち着かせることや、一時的な気休めでは、弟子たちは救われないのです。イエスは、「世の平安」ではない、もっと根本的な、力のある「平安」を与えると、前もって弟子たちに約束してくださったのです。それがヨハネ13:27のみことばです。

 二、イエスの平安

 では、イエスが「わたしの平安」と言われた「平安」は、どんな平安なのでしょうか。イエスはどのようにして、それを私たちにくださるのでしょうか。ヨハネ20:19-20にこうあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 弟子たちは恐れの中にいました。「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」との言葉がそれを表わしています。そこに、復活されたイエスが入ってこられ、「平安あれ」“Peace be with you.” と言われました。「イエスが来て彼らの真ん中に立ち」とあるように、「イエスの平安」とは、イエスが共におられることから来る平安です。「イエスの平安」は、イエスから切り離されたものではありません。イエスご自身が、私たちの平安であり、イエスが共にいてくださることが、あらゆる恐れに打ち勝たせる「平安」なのです。ヨハネ20:20は、「弟子たちは主を見て喜んだ」との言葉で結ばれています。今日の私たちにとって「主を見る」とは、復活され、今も生きておられる主が、私たちと「共におられる」と知り、確信することだと思います。そのとき、「主の平安」によって、「恐れ」が「喜び」に変るのです。

 古代では、教会での挨拶の言葉は「主が共におられますように」(“Dominus vobiscum”)でした。今でも、司式者が「主が、皆さんと共に」(“The Lord be with you.”)と呼びかけると、一同が「主は、あなたとも共に」(“And also with you.”)と応答して、礼拝を始めます。実は、英語の“Good bye” は、“God be with you.” から来ています。「主が共におられますように」、その言葉通りの祈りで人と出会い、人を見送ることができたら素晴らしいことです。お互いが平安で満たされることと思います。

 ヨハネ20:20には、また、イエスがどのようにして私たちに平安をくださるのかが書かれています。それは、「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された」との言葉に見ることができます。イエスが弟子たちに示されたからだは復活のからです。復活のからだは、「栄光のからだ」であると教えています。私たちも、イエスが再び世に来られるとき、復活のからだを与えられるのですが、それは全くの健康体で、もはや老いることも、衰えることもありません。すべての傷は癒やされており、すべての欠陥は補われ、しみも、しわも、どんな欠けたところもない完全なものです。そうであるのに、イエスの復活のからだには、なんと、その手と脇腹に傷が残されているのです。この傷は、それによって、私たちの罪が赦され、私たちが罪の傷から癒やされ、神との平和を得ていることを示しています。ローマ5:1に「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」とある通りです。「イエスの平安」は、私たちが、イエスの献げられたいのちによって生かされ、神との平和を得ていることから来るものです。イエスのくださる平安は神との平和であり、しかもそれは、十字架によって勝ち取られたものなのです。

 ヨハネ14:27は、以前の訳では「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」となっていましたが、新しい訳では「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」と言われました。少し分かりにくいですが、より、正確な翻訳です。イエスは、ご自分が与える平安は、イエスがご自分のいのちを献げることによって、また、復活によって与えられる平安であると言われたのです。世は、けっしてこのようには平安を与えることはできません。確かに、私たちは、人から励ましてもらい、慰めてもらうことによって、気持ちを取り直し、不安が和らぐことがあります。しかし、人の励まし、慰めは、やがて力をなくしていきます。感情を一時的になだめることができても、たましいの奥底まで届く深い平安を与えることはできないのです。そのような平安は「イエスの平安」だけです。この平安を求めましょう。また、他の人にも、この平安を証しし、それによって、人々を励まし、慰める者となりたいと思います。

 三、平安と励まし

 最後に、ヨハネ14:27に戻りましょう。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」イエスは、そう言われてから「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」と言われて、弟子たちを励まされました。

 「心を騒がせる」という言葉は、新約聖書で18回出てきます。ヨハネ5章に、38年間、病気だった人が癒やされたことが書かれていますが、そこでは、この言葉が、池の水が「かき回される」というところで使われています。そのことから、「心を騒がせる」とは、水がかき回されるように、心がかき回される状態であることが分かります。他のところでは、「動揺する」、「おびえる」、「取り乱す」などとも訳されています。

 イエスは、弟子たちに「心を騒がせるな」と言われたのですが、実は、ご自身が「心を騒がせ」ておられます(ヨハネ11:33、12:27、13:21)。このことから、イエスが弟子たちに「心を騒がせるな」を言われたとき、それは、イエスが、いわゆる「上から目線」で、弟子たちを叱ったのでないことが分かります。3度も心を騒がせることがあったイエスは、弟子たちが心を騒がせている状態を理解し、そう言われたのです。ヘブル4:15に「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」とあるとおり、弟子たちが味わうことになる痛みや苦しみは、イエスがすでに味わっておられたものだったのです。イエスは、私たちが「動揺し」、「おびえ」、「取り乱す」とき、それを理解し、私たちを支え、力づけ、導いてくださるお方です。私たちが「心を騒がせ」ている、その只中に、平安を注いでくださるのです。

 イエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われたあと、「ひるんではなりません」とも言われました。これには、「人を恐れる」という意味があります。人を恐れるのは、自分に平安がないからです。ペテロは、人を恐れ、三度もイエスを「知らない」と言った、苦い体験を持っています。それで、ペテロは、彼の手紙の中でこう書きました。「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。」(ペテロ第一3:14)「おびえる」というところには、「心を騒がせる」と同じ言葉が使われています。ペテロが手紙を書いたクリスチャンたちは、周りの人々から攻撃を受けていました。クリスチャンは正しい生活をし、人々のために尽くしました。それなのに、その信仰のゆえに苦しめられ、脅かされたのです。しかし、外部の攻撃があっても、そのたましいにはイエスの平安が注がれていました。だから、イエスの平安によって、人を恐れたり、おびえたりすることないようにと、信仰者たちを励ましたのです。

 もし、私たちが、イエスが共におられ、私たちを助けてくださることを信じることができなかったら、私たちはすぐに平安をなくし、さまざまな心配、不安、さらには、恐れによって心が乱されてしまいます。しかし、イエスは、「わたしは、…わたしの平安を与える」と約束されました。この平安は、イエスが「わたしの」という言葉で強調しておられるように、イエスが生み出し、イエスが保証しておられる平安です。心が騒ぐ時、ひるんでしまう時、イエスに目を向けましょう。「イエスの平安」を願い求め、イエスご自身から、それを受け取りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、世の中の様々な出来事にふりまわされ、たびたび心を騒がせてしまいます。そんなとき、イエスの平安を求めるようにと、私たちを教えてくださり感謝します。イエスの平安を求めます。この不安な時代を、恐れることなく、ひるむことなく生きていく力をお与えください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/28/2024